ソーシャルスキルは、社会を映す鏡
「ソーシャルスキルっていうのは、実は“これが正解”というものがないんです。社会の常識に合わせて必要なスキルも変わりますから」先日、東京学芸大学の藤野博先生からこんなお話をお聞きし、ハッとさせられるものを感じました。
少し分かりやすくお伝えするために、サルの社会のことを例にあげたいと思います。
その生態から比較的人間に近い知的機能を有していると言われるチンパンジー。彼らの社会は順位付けが極めて明快であるわりに、餌などの所有物については「見つけた者勝ち」のルールが適用されます。所有者に主体性が認められ、独占することも、相手に分け与えることも可能です。
同じようにグループ内の順位付けに厳格なニホンザルの社会では、上位のサルが弱者を支配し、弱者の物を収奪する封建主義的なルールが適用されています。子ザルの口をこじ開けてでも奪おうとする上位サルの様子がそれを物語っています。
ソーシャルスキルとは、いわば「人づきあいのコツ」のようなものです。チンパンジーの社会では「分け与える」というソーシャルスキルが求められ、ニホンザルの社会では「奪う」というソーシャルスキルを学ぶことになります。
そのように考えると、人間の社会で期待される常識がはたして確固たる基盤を有しているのか、少し心配になってきます。家族のあり方はますます多様化していて、学校で社会規範として学習させたいことが個々の家庭の教育方針とズレている現実を目の当たりにする、そういったことも決して少なくありません。
特別支援教育、とりわけ通級指導教室のような特別な場での指導場面では、ソーシャルスキルトレーニング(SST)を積極的に取り入れることが多いのですが、上述のように、脆弱になりかけた「社会常識」という基盤を拠り所とするのは心もとない状態であると思います。閉ざされた安全な場で身につけたスキルは、日常生活の様々な場で発揮できるようにすること(これを「般化(はんか)」と言います)が大切なのですが、周りの子どもたちに社会的な規範を受けとめる土台が育っていないことも多く、本当にSSTが必要なのはどちらなのか、と問いたくなる場面もしばしば見かけます。道徳や学級活動の授業研究などでSSTを取り入れようと試みる先生も増えてきていますから、あらためて「特別な子のためにだけ行う指導」ではないことを私たちは認識すべきではないかと思います。
少し話はそれてしまうかもしれませんが、私たち大人の側も、自らの言動が、子どもたちのソーシャルスキルを構成する要素であることをもう少し自覚する必要があるように思います。
「やめなさい、といくら言ってもやめてくれない」、「何やってるの!、が伝わらない」と嘆く声をよく耳にするのですが、どちらも「(あなたが)やめるべき」、「(あなたは)何やっているのか」と二人称での声掛けで解決しようとしています。「(私は)やめてほしい」、「(そうされたら、私は)悲しい」という一人称で自分のことを語る必要があるのではないでしょうか。子どもたちが、「(オマエ)ウザい」、「(コイツ)ムカつく」、「(アイツ)死ね」という二人称に向けた言葉を口にするたびに、そう強く思います。
少し分かりやすくお伝えするために、サルの社会のことを例にあげたいと思います。
その生態から比較的人間に近い知的機能を有していると言われるチンパンジー。彼らの社会は順位付けが極めて明快であるわりに、餌などの所有物については「見つけた者勝ち」のルールが適用されます。所有者に主体性が認められ、独占することも、相手に分け与えることも可能です。
同じようにグループ内の順位付けに厳格なニホンザルの社会では、上位のサルが弱者を支配し、弱者の物を収奪する封建主義的なルールが適用されています。子ザルの口をこじ開けてでも奪おうとする上位サルの様子がそれを物語っています。
ソーシャルスキルとは、いわば「人づきあいのコツ」のようなものです。チンパンジーの社会では「分け与える」というソーシャルスキルが求められ、ニホンザルの社会では「奪う」というソーシャルスキルを学ぶことになります。
そのように考えると、人間の社会で期待される常識がはたして確固たる基盤を有しているのか、少し心配になってきます。家族のあり方はますます多様化していて、学校で社会規範として学習させたいことが個々の家庭の教育方針とズレている現実を目の当たりにする、そういったことも決して少なくありません。
特別支援教育、とりわけ通級指導教室のような特別な場での指導場面では、ソーシャルスキルトレーニング(SST)を積極的に取り入れることが多いのですが、上述のように、脆弱になりかけた「社会常識」という基盤を拠り所とするのは心もとない状態であると思います。閉ざされた安全な場で身につけたスキルは、日常生活の様々な場で発揮できるようにすること(これを「般化(はんか)」と言います)が大切なのですが、周りの子どもたちに社会的な規範を受けとめる土台が育っていないことも多く、本当にSSTが必要なのはどちらなのか、と問いたくなる場面もしばしば見かけます。道徳や学級活動の授業研究などでSSTを取り入れようと試みる先生も増えてきていますから、あらためて「特別な子のためにだけ行う指導」ではないことを私たちは認識すべきではないかと思います。
少し話はそれてしまうかもしれませんが、私たち大人の側も、自らの言動が、子どもたちのソーシャルスキルを構成する要素であることをもう少し自覚する必要があるように思います。
「やめなさい、といくら言ってもやめてくれない」、「何やってるの!、が伝わらない」と嘆く声をよく耳にするのですが、どちらも「(あなたが)やめるべき」、「(あなたは)何やっているのか」と二人称での声掛けで解決しようとしています。「(私は)やめてほしい」、「(そうされたら、私は)悲しい」という一人称で自分のことを語る必要があるのではないでしょうか。子どもたちが、「(オマエ)ウザい」、「(コイツ)ムカつく」、「(アイツ)死ね」という二人称に向けた言葉を口にするたびに、そう強く思います。
登録日: 2009年2月5日 / 更新日: 2009年2月5日




