2008.08.05
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『ダークナイト』 モラル喪失の社会と人間のあり方を描く映画

今回は、秩序が崩壊し、カオスが出現した社会で、人間はいかに生きるべきかを描いた『ダークナイト』です。

今の日本は理屈が成り立たない時代

最近のニュースを見ていると、なんだか哀しくなったり、憤りを感じて胸が痛くなったりする。なぜなら簡単に人の命を奪う時代になっているということを痛感してしまうから。なにしろ今は「ムシャクシャしていたから」という理由で、会った事も見た事もない人からナイフで刺される時代。突然、名も知らぬ人によってあっ気なく命を奪われるのだ。なんと恐ろしい世の中になったことか。

 人によってはこういう無差別殺人は、ゲームや映画、テレビなどの悪影響だという。はたしてそうなのだろうか!?
 本当にそんなことに影響をされているとしたら、もっとそんな風になる人がいっぱいいてもおかしくないのでは? 例えば映画業界にはホラーが大好きで、それこそオカルトから血しぶきが飛びまくるようなスプラッターまでケラケラと笑いながら見ている人がたくさんいる。知りあいにもゲームが大好きで年中ゲームをやっている人は大勢いる。

 その人たちがおかしくなっているかといえば、そんなことは全くない。ちゃんと映画は映画、ゲームはゲームと分別をつけて楽しんでいる。考えても見てほしい。自分だって、そういったものを楽しいとか言いながら、子どもの頃には少なからず見ていただろう。男性ならウルトラマンシリーズや仮面ライダーシリーズなどに燃え、教室の後ろでなりきって遊んだりしていたはずだ。女性だってちょっと怖いミステリー小説やホラー漫画などをキャーキャー言いながら読んでは、修学旅行などで披露して盛り上がったことは一度くらいあるのでは?

 しかし、自分の理性や道徳観から結論を出そうとすると、そういう既存のものに原因があると言いたくなる。そういう風にしか考えられないからだ。つまり、物事には理屈があり、結果があると考えてしまうからだ。だが今はそういう時代じゃなくなってきているのではないだろうか。

ヒーロー・バットマンは実は普通の人間

 で、この『ダークナイト』である。『バットマン』シリーズの最新作なのだが、この映画が描こうとしているのは、まさにそんな理性とモラルを持って生きていくことの難しさ。そもそも『バットマン』の世界はゴッサムシティという架空の街が舞台となっている。その街では常に犯罪が隣り合わせ。いわゆる闇部分をたくさん抱えた街であり、その犯罪撲滅のために日夜バットマンは闘い続けている。

 だがバットマンとして闘っているのは、ここではあくまでも普通の人間だ。ブルース・ウェインという大富豪が、金をかけて作った特殊スーツに身を包んで奮闘しているだけなのだ。その証拠にオープニング・アクション(ギャングの麻薬取引にバットマンが現われる)で、彼は犯人側がけしかけた大きな犬に腕をかまれる。その犬の歯は特殊なバットマンスーツを貫き、バットマンの腕から血がしたたり落ちるのだ。

 自分の秘密基地に戻ったバットマンはその傷をひとりで縫合する。当然、記録が残ってしまうから病院などにはいけない。そんな風にしてついた傷がブルース・ウェインの肉体には限りなくある。それが見える瞬間があるが、その痛々しさといったらない。それを見たブルースの執事であるアルフレッドは「もう限界です」と思わず助言してしまうほど。

 ブルースは、夜はそんな風に犯罪者との闘いに明け暮れているから、昼は大事な会議でもついウトウトとしてしまうほど疲れきっている。しかも世間への目くらましのために、昼行灯な男のフリをし、常に絶世の美女系を連れて回ったりしていて世間には“金持ちの鼻持ちならない坊っちゃん”のイメージを演出しているのだ。真実を知る10本の指で数えられるほどの人間以外には、自分の評判をわざと自分でおとしめているというわけ。だから本当に愛するヒロイン、レイチェルのことも大切にするあまりにあえて彼女を自由にさせている。

 そのレイチェルが現在つきあっているのはハービー・デントという地方検事。時には命を狙われながらマフィアとも堂々とわたり合う男だ。そんなハービーにブルースも一目置いてきた。正義感あふれる彼が本当に信用に値する人間かどうか、じっくり見極めてきたのだ。これは映画では別にキッチリとは描かれてはいないが、自分が心底愛している女性をちゃんとまかせられる人物か……という思いもあったに違いない。

究極の悪、渾沌の使者・ジョーカー登場

 やがてブルースも自分の精神的&肉体的限界を感じつつ、素顔で悪と対決し続けるハービーに、ゴッサムをもっとまかせても良いのではないか……という気持ちになっていく。自分は“闇”でしか闘えないが、ハービーならば“光の戦士”になれると思ったのだ。 だがそんな彼らの思いをすべてブチ壊す男が現われる。それが故ヒース・レジャー演じる悪役“ジョーカー”だ。

 そもそもジョーカーとはどういう人物なのか。原作のアメコミでは'40年に初登場したキャラクターだが、原作者のボブ・ケインはヴィクトル・ユーゴー原作の映画『笑う男』(28年)をモデルにして作りあげたという。彼によると当初、ジョーカーは1話限りで死なせてしまうつもりだったらしい。けれどもあまりにもキャラクターが立っていたためそれを止めたのだとか。

 年を経て原作がシリアスな作風になるに連れ、ジョーカーも残虐非道な悪人となり、やがてバットマンとの対極のキャラとして描かれるようになっていった。そんなキャラクターが映画の中では究極の悪役、悪の象徴として、これまでも登場している。

 今回のジョーカーもとにかく訳がわからなくて、身震いするほど恐ろしいキャラクターだ。口を切り裂かれ、それを縫った痕があるのだが、その理由は語る度に異なっている。そこに真実があるのか、それともすべて嘘なのか、それもわからない。

 ただひとつ彼の企みがわかるのは、彼自身、渾沌の使者として自分の犯罪で世間をブチ壊そうとしているというだけ。バットマンに向かって「お前がいなければ俺はケチな泥棒だ」というジョーカーの台詞があるが、まさに彼はモラルを持って闘っているバットマンとは正反対の人間なのだ。だからジョーカーはこうもバットマンに向かって言う。「お前には俺は殺せない」と。

ジョーカーが仕掛けた罠は現代社会の縮図

そうなのだ。バットマンは悪党だからと言って簡単に人を殺したりはしない。悪党も人としてちゃんと法律のもとに裁こうとするタイプだ。けれどもジョーカーには理屈もモラルも通じない。人間の命をツメの垢ほども重んじない。それは忠誠を誓った自分の部下に対してもそう。冒頭でジョーカーが銀行を襲うシーンがあるが、その時に一緒に働かせた部下たちを義理人情もなく、次々と殺すシーンが物語っている。

 じゃ、彼は金が欲しいのか!? その答えもNOだ。実際、彼はあり余るほどの札束をもらいながら、それになんの躊躇もなくガソリンをかけて火を点ける。他の悪党はその光景に愕然とするだろうが、彼にとってはどうってことないのだ。

 彼にとってはすべてがゲームであり、すべてが幻なのかもしれない。だからバットマンが自分を殺そうとすれば、笑って自らの肉体を差しだす。それは自暴自棄になってのことでもない。モラルを持って行動してきたバットマンが、もし、何の抵抗もしない自分を殺せば、それこそバットマンがモラルを失ったことになるからだ。

 つまり自分が死んだとしてもジョーカー自身が仕掛けたゲームでは“ジョーカーの勝ち”になるというわけ。彼にとって楽しいのは秩序という秩序の崩壊であり、そこに渾沌=カオスを出現させることだから。本作中、バットマンが初めて理性を失いかけて、思わずキレ、ジョーカーを無用に痛めつけようとした途端、ジョーカーは大笑いしながら彼に殴られまくったのである。

 そんな風にすべてを呑み込んでしまうようなジョーカーの有り様は、まさに現代社会の縮図といえるのではないだろうか。つまり、もう理屈で説明できるような社会は終わりかかっているのだ。誰もがいつ死ぬかわからないと半分怯えながら暮らさざるを得ない社会の中で、悪に染まらずに清く正しく生きていけるのか、この映画は実はそんなことを問う作品になっているのである。

 ネタばれになってしまうからこれ以上は書けないが、後半の物語展開はまさにそのテーマがどんどん浮き彫りになっていく。でも人間はそんな秩序が崩壊した世界の中でも生きていかねばならない。どんなに最悪な状況になっても、それを変えていけるのは人間の魂のあり方、どう生きていくか、どう愛を持って接していくか……しかないからだ。どんなに世界が闇に落ちようと、自分を奮い立たせ、生きていくしかないのだということ、すべては自分の責任において成し得ていかねばならないのだということを、これだけスリリングなアクションを取り込みつつ、語る作品にはそうそう出会えないだろう。

 日本もまさに今、このジョーカーが仕掛けた罠にはまってしまったかのような、とんでもない状況に陥っているのは明白だ。でもそういう社会環境になってしまったことを憂いているだけではダメ。一人一人がもう一度互いを信じあい、リスペクトして助けあう……そんな気持ちをもう一度奮い立たせなければ明るい未来は訪れない。ずっと闇の中に放置されてしまうだろう。是非この映画を見て、そんなことを話しあっていただきたいものだ。

Movie Data
監督・原案・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
原案:ディビッド・S・ゴイヤー
脚本:ジョナサン・ノーラン
出演:クリスチャン・ベール、ヒース・レジャー、アーロン・エッカート、マギー・ギレンホール、ゲイリー・オールドマンほか 
TM &(c)DC Comics (c)2008 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved
Story
巨大企業の社長であるブルース・ウェインはバットマンとして街から悪を一掃するため奮闘していた。密かに彼に協力するゴードン警部補らと共にマネー・ロンダリング銀行を摘発。マフィアの資金源を絶つことに成功する。一方、怒るマフィアのもとにジョーカーと名乗る男が現われ、「俺がバットマンを殺す」と宣言する……。

構成・文:横森文

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監督・脚本:宮崎駿
プロデューサー:鈴木敏夫
音楽:久石譲
声の出演:奈良柚莉愛、土井洋輝、山口智子、長嶋一茂、所ジョージ、天海祐希、柊瑠美、矢野顕子ほか
(c)2008 二馬力・GNDHDDT

構成・文:横森文  ※写真・文の無断使用を禁じます。

横森 文(よこもり あや)

映画ライター&役者

中学生の頃から映画が大好きになり、休日はひたすら名画座に通い、2本立てなどで映画を見まくっていた。以来、どこかで映画に関わっていたいと思うようになり、いつの間にか映画ライターに。『スクリーン』、『DVD&ブルーレイでーた』、『キネマ旬報』など多数の雑誌に寄稿している。 一方で役者業にも手を染め、主に小劇場で活躍中。“トツゲキ倶楽部”という作・演出を兼ねるユニットを2006年からスタートさせた。
役者としては『Shall we ダンス?』、『スペーストラベラーズ』、『それでもボクはやってない』、『東京家族』等に出演。

2022年4月より、目黒学園で戯曲教室やライター講座を展開。

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