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教育インタビュー

2015.05.19
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鎧塚 俊彦 パティシエの職人魂を語る。

ピンチとチャンスは表裏一体。全力でぶつかってこそ、手に入れられるものがある

鎧塚俊彦氏は日本を代表するパティシエ。パティスリー「トシ・ヨロイヅカ」のオーナーシェフとして腕を振るいながら、農業・地方の活性化や後進の育成にも精力的に取り組まれ、そのすべてがご自身のパティシエ哲学に貫かれています。そんな鎧塚氏に、洋菓子の道を選んだきっかけや日本とヨーロッパでの修業時代、親譲りの職人魂、若い世代に伝えたいことなど、余す所なく語っていただきました。

「食べてみたい」という思いが出発点

学びの場.comパティシエは、小学生に人気の職業です。鎧塚さんも子どもの頃から目指していたのでしょうか?

鎧塚 俊彦子どもの頃は食べることが好きだったので、テレビ番組でフランス料理のフルコースなどを紹介していると、「こんな料理を食べてみたいな」と思いながら見ていました。父が外食を好まない人で、年に1、2回、百貨店の食堂に連れて行ってくれる程度でしたから、そうした料理を食べたいなら「自分で作るしかない」とは思っていました。また、百貨店の食堂のチョコレートパフェにはワクワクしましたね。めったに食べられないだけに、ショーウィンドウに陳列されている姿を目にしたときの喜びや、食べたときの感激には格別なものがありました。とはいえ、パティシエになろうとまでは思っていませんでした。

学びの場.comでは、洋菓子の道を選び、職業として目指そうと思われたのはいつ頃ですか?

鎧塚 俊彦辻製菓専門学校に入ったのは22歳、パティシエとして働き始めたのは23歳で、スロースターターです。というのも、高校卒業後、一度は料理や洋菓子に全く関係のない仕事に就いていたからです。しかし、一生続けたいと思うまでの熱意は持てず、子どもの頃から好きだった食の世界を目指そうと決めました。料理ではなく洋菓子を選んだのは、当時、大学に進学しない人間は自動車、土木、料理の方面に進むことが多く、男子でお菓子屋さんになりたいという人間が周りにいなかったからです。そこに面白味を感じました。

学びの場.comご実家は家具職人の家系とのこと。ジャンルは違えど、パティシエも手でものを作る仕事という点で共通していますね。

鎧塚 俊彦父から「職人になれ」「跡を継げ」などと言われたことはありませんが、「手に職をつけておけば、一生食いっぱぐれることはない」とは子どもの頃から言われていました。そこに職人としての父の自負を感じましたね。父以上に頑固な職人だった祖父の話もよく聞かされていたので、職人に対する憧れのようなものはずっと自分の中にありましたし、今も残っていると思います。

同じ苦労なら報われる可能性の高い苦労を

学びの場.com製菓専門学校を卒業後、街の洋菓子店ではなくホテルに就職されたのはなぜですか?

鎧塚 俊彦フランス料理にしろ洋菓子にしろ、当時はホテルが最高峰という認識でしたから、いつか自分の店を持つ日のために、そこで腕を磨きたいという思いがありました。

学びの場.comそれで、守口プリンスホテル(現・ホテル・アゴーラ大阪守口)での修業を経て、神戸ベイシェラトン ホテル&タワーズにセクションシェフ(部門シェフ)として移籍され、スーシェフ(副製菓長)へとキャリアを積まれて行かれたのですね。

鎧塚 俊彦はい。ただ、守口プリンスホテルでは一番下の立場でしたから、まだ自分にセクションシェフは早いと思い、神戸ベイシェラトン ホテル&タワーズへの移籍話はお断りしようと思っていたのです。けれど、当時お世話になっていたシェフが「どうせ苦労するなら報われる可能性の高い苦労をした方がよいのではないか?」と背中を押して下さり、踏ん切りがつきました。この移籍は、その後につながる大きな転機になりました。

学びの場.com5年のキャリアでスーシェフというのは、パティシエの世界では異例のスピード出世だそうですが、そこで満足せず、ヨーロッパに修業に行こうと思われたのはどうしてなのでしょう?

鎧塚 俊彦ホテル時代から現在に至るまで、私は自分が成功したとは思っていません。常に「今」は次のステージに進むためのステップと捉えているので、そのままホテルに留まることは選択肢にありませんでした。意識せずに厳しい道を選んでいるので、そういう性分なのでしょう。
また、謙遜でも何でもなく、私には才能などありませんし、むしろ不器用だと思っています。その気持ちは今でも変わりません。当時は「ここまで来ることができたのは人より要領がよく、多くの人に助けてもらったからだ」というコンプレックスを抱いていました。それもヨーロッパで一人、修業をし直そうと思った理由の一つです。

体当たりで挑んだヨーロッパ修業時代

学びの場.comヨーロッパではスイス、オーストリア、フランス、ベルギーの4軒のお店で計8年間、修業をされています。

鎧塚 俊彦最初に働いたスイスの菓子店のオーナー、トビアス・エルマティンガー氏については日本の知人に紹介していただきましたが、あとは一切コネ無し。自ら門を叩き、体一つで直談判。仮に「来ていいよ」と言ってもらっても、労働ビザがなければ正式な雇用ではありませんから、給料や休みについては何の権利もない。そこで一から交渉するのです。言葉は不自由ですし、原則として自国民の雇用が優先されますから、圧倒的な実力を見せないと外国人は雇ってはもらえません。晴れて正式雇用となっても、自分のポジションや信用をつかみ取るには、最低でも1年半はかかります。
よく日本人が海外で修業をする場合、1年間に4軒くらい店を転々とすることが多いのですが、それではなかなか重要な仕事やポジションは任せてもらえません。私は自分のポジションを勝ち取って生活基盤を築くまで、絶対に店を移りませんでした。そこに自分の足跡を残したかったからです。
結果、スイスのあとはオーストリアの伝統的なウィーン菓子の店で修業し、次のフランスではパリ最古のパティスリーで働きながらコンクールに挑戦、優勝を果たし、最後のベルギーでは三つ星レストランのシェフパティシエとなり、それぞれで大きな学びを得ることができました。

学びの場.comヨーロッパ修業時代で一番のピンチは?

鎧塚 俊彦最初のスイスで、エルマティンガー氏から「労働ビザが取れないから3か月で帰りなさい」と言われたときです。仕事を辞め、部屋も引き払い、当分日本には戻らない覚悟でしたから。
これはエルマティンガー氏の落ち度ではありません。彼は本当に親切な方で、私を快く受け入れて下さったのですが、労働ビザを取ることの大変さを知らなかったのです。日本は先進国ですから、他のアジアの国のようにスイスと雇用に関する条約を結んでおらず、和食や寿司以外の職人が労働ビザを取ることは非常に困難でした。私も後に雇い主として外国人を雇う際、初めてその難しさを知ったくらいですから、無理もありません。
とはいえ、当時はそのような事情はわからず、自分の頑張りが足りないからだと思い込んでいたので、何とか実力を認めてもらおうと必死でした。ショーケースの一部を任せてほしいと頼み込み、その店にはなかった見た目の美しい菓子を毎日、作って並べました。ところが、お客様は私の作ったケーキを見て「きれいだ」と褒めてくれるのに、買ってはくれない。私の菓子には、人に「おいしそう」「食べてみたい」と思わせる部分が欠けていたのです。そのことに気づいた私は試行錯誤を重ね、ついに「トシ・マンデルクローネ」という人気商品を生み出し、労働ビザを取ってもらうことができました。エルマティンガー氏は結果だけではなく、そこに至るまでの過程も評価して下さったのだと思います。その思い出深いトシ・マンデルクローネは現在、トシ・ヨロイヅカ全店舗で販売しています。

学びの場.com帰国のピンチに瀕しながら、ヒット商品を生み出したのですか!

鎧塚 俊彦それ以来、「きれい」のあとに必ず「食べてみたい」と言ってもらえる菓子が私の規準になりました。このとき、メンタル面も大いに鍛えられました。ここで悪戦苦闘したことで打たれ強くなり、自分のポリシーを曲げずに他国の文化を受け入れるしなやかさを身につけることができたのです。その後、行く先々でピンチを乗り越えることができたのも、この経験があったからだと思います。
言葉や文化が異なり、有事の際の保障も無い異国の地で、生活するだけでも精神的に鍛えられます。自分がいかに母国に守られて生きてきたかということにも改めて気づかされ、そのありがたみを実感しました。海外での修業から帰国して成功する人間が多いのは、言葉の通じる母国が一番やりやすいというのもありますが、こうしたメンタル面の強化も大きく影響していると思います。

学びの場.comところで、外国語はどのようにして覚えられたのですか?

鎧塚 俊彦スイスに行ったときは、エルマティンガー氏がドイツ語、英語、フランス語に堪能な方で、その中の1か国語をマスターして来るよう言われたので、英語を勉強していきました。しかし、彼は常に現場にいるわけではなく、現場のスタッフはドイツ語しか話せません。ですから、彼らと一緒に働きながら、一からドイツ語を覚えていきました。フランス語は職場が決まるまでの2か月間、一般家庭にホームステイしながら語学学校に通って勉強し、中級者コースまで進みました。語学学校をやめて働き始めると細かな文法はあやふやになってしまいましたが、周りも慣れるのか、私の少々怪しげなフランス語を理解してくれました。いずれにせよ、その国の生きた言葉を学ぶには、臆しないこと。どんどん人の輪の中に入って行くことが一番です。菓子作りを学びに行った私にとっては、職場の人とコミュニケーションを取ることが、同時に言葉を覚えることになりました。

スイーツを通して農業や地方の活性化を目指す

学びの場.com「トシ・ヨロイヅカ」での活動と並行して、近年は農業や地方の活性化にも取り組んでおられますが、そうした活動をはじめられたきっかけは?

鎧塚 俊彦以前から「自分達が作った食材で本当においしい菓子を作りたい」という夢を抱いていましたが、実現はまだ先のことだと考えていました。しかし、より良い食材を求めて日本中を尋ね歩くうちに、人手不足や作り手に厳しい市場体制といった農業の現状や課題を知り、いても立ってもいられなくなって、農作物の生産を始めることにしました。身をもって畑を耕して初めて、自分に発言できることも出てくると思ったからです。それで、地元農家の皆さんの力をお借りして小田原に農園を併設したパティスリー&レストラン「一夜城 ヨロイヅカファーム」をオープンし、その後、渋谷ヒカリエに地方の自治体や農家の方々とのコラボスイーツを提供する「ヨロイヅカファーム トーキョー」をスタートさせました。日本だけでなく、エクアドルでも完全無農薬のカカオファームを開設しました。

鎧塚 俊彦小田原ではミツバチを全滅させてしまいましたし、エクアドルでは近くのトウモロコシ畑で空中散布された農薬が乾燥途中のカカオ豆にかかるという事態に見舞われました。そうした失敗やリスクは知識としては知っていましたが、実際に自分の身に降り掛かってくると感じ方は全く違います。野菜の有機栽培や無農薬栽培にしても、農家の苦労は大変なもので、簡単には実践できないことを知ると、無農薬・無化学肥料の野菜以外は認めないというような風潮に心が痛むこともあります。また、自分で農作物を育てることで、私を始め若いスタッフ達の意識も変化し、以前より素材を丁寧に、大切に扱うようになっています。
ただ、こうした活動は、すべておいしい菓子を提供するためにやっていることです。私はパティシエですから、今までもこれからも、すべての活動はそこに帰結しなくてはいけないと思っています。

逃げ道を用意せず、やりたいことに全力でぶつかってほしい

学びの場.com製菓専門学校などで臨時講師として後進の指導をされる中で、若い世代に伝えたいことは?

鎧塚 俊彦チャンスとピンチを表裏一体で捉えることですね。私がスイスの労働ビザ騒動で身をもって体験したように、チャンスの裏にはピンチが、ピンチの裏にはチャンスが隠されているものです。現在はワーキングホリデーという制度があり、対象年齢内であれば誰もが最低1年間は海外で働けるようになっています。チャンスが広がったように思えるかもしれませんが、それによって海外で修業する人が珍しくなくなるわけですから、実は大きなピンチなのです。
また、「フランスに行っておいた方がいいですか」とよく学生に聞かれますが、必ず「行かない方がいい」と答えています。なぜなら、何か目的があって「どうしても行きたい」と思うのであれば行くべきですが、「皆が行くから」「有名なシェフが行っているから」という程度の理由であれば行っても意味がないからです。フランスに行けば目からウロコが落ちるような製法や器具、材料といったものがごろごろ転がっていた時代は過ぎ去り、今は自分が本当に飢えている状態でないと、必要な何かを見つけることはできないでしょう。

学びの場.comいわゆるハングリー精神が必要なのですね。

鎧塚 俊彦うちのスタッフや講演会で会った若者達によく言うのですが、努力が報われるのは何回も壁にぶち当たった末の話で、短いスパンで考えれば、若い頃の努力はほぼ報われません。コンクールに挑戦すれば負け、提案を出せば却下され、頑張ってもうまくいかないことの方がずっと多い。それで自分の才能の無さに気づいた所からが本当のスタートなのです。ところが、昨今の若者は傷つきたくない人が多く、「全力を出していないからうまくいかなかっただけだ」と自分の中に逃げ道を用意しているようです。
ただ、これは若者だけでなく、周囲の大人にも責任があります。例えば、自分の子どもが全力で壁にぶつかろうとしていると、親は心配のあまり「ちょっと待って、それは危ないよ」とリスクを回避させようとする。若者が本気で壁に向かって行こうとしても、それを先回りして止めようとする環境を大人が作ってしまっているのでしょう。
私の若い頃は、思い切り壁にぶつかって跳ね返され、傷ついても、再び全力でぶつかって行くよう親や先輩方に教育されましたから、自分も若者達にそう教えています。そうして10年、20年と繰り返し壁にぶつかって行くうちに、「努力が報われるというのは、こういうことなのかな」と思えるときがやって来るのです。
最近気づいたのですが、人間って、誰かが目の前で溺れていたら助けるものなのです。ただし、逃げ道を用意している人を助ける気にはなりませんから、手を貸してもらうには「全力で壁にぶつかっている」という資格が要るのです。ですから、指導者や保護者の方は逃げ道を用意して若者を守るだけではなく、時には「もっと行け、もっと行け」とハッパをかけてほしいと思います。

学びの場.com最後に、これから何かに挑戦したいと思っている若い世代や子ども達へのメッセージを。

鎧塚 俊彦リスクを回避せず、やりたいことに全力でぶつかって行ってください。才能がないとか、自分には向いていないとか、将来性がないとか、そういったことは一切考えず、何でもいいから本当にやりたいことを恐れずにやってほしいと思います。挑戦せずに諦めればあとで後悔するし、中途半端にやれば取り組んだことも生きてはきません。全力でやっていれば、仮に失敗したとしても、必ず次の何かにつながっていくはずです。

鎧塚 俊彦(よろいづか としひこ)

1965年京都府宇治市生まれ。辻製菓専門学校を卒業後、関西でのホテル勤務を経て渡欧し、8年間修業。その間、パリで行われたコンクールINTERSUC 2000で優勝を果たし、ベルギーの三つ星レストランで日本人初のシェフパティシエとなる。帰国後、’04年東京都恵比寿に「トシ ヨロイヅカ」をオープン。カウンターで出来立てのデザートを提供する独自のスタイルを確立し、東京ミッドタウンに出店。その後、エクアドルにカカオファームを開設し、神奈川県小田原市に農園を併設したパティスリー&レストラン「一夜城 ヨロイヅカファーム」、渋谷ヒカリエに日本各地の農産品等を使ったスイーツショップ「ヨロイヅカファーム トーキョー」をオープンするなど、精力的に活動。

インタビュー・文:吉田教子/写真:言美 歩

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