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教育インタビュー

2011.09.20
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藤本隆宏 挫折、転身、努力を語る。 人生にとって、遠回りは無駄ではないのです。

藤本隆宏さんは、昨年末放送のNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』で主人公の親友、広瀬武夫中佐を好演し、一躍世間の注目を浴びるようになった俳優。実は、競泳の元五輪選手から俳優業へ転身という経歴の持ち主です。メダルを取れなかったコンプレックスから20代後半で入った新たな道。その裏にはドラマで演じた明治人のように、武骨でひたむきな努力がありました。長い下積みを経て41歳の今、何が藤本さんを支えてきたのか、語っていただきました。

どん底から立ち直ったきっかけは・・・

学びの場.com藤本さんは水泳のトップアスリートから一転、俳優を目指し1996年4月、劇団四季の研究員となります。そして2年目、ダンスも歌もせりふも上手くいかず行き詰まっていた時、母校の西日本短期大学附属高等学校(福岡県久留米市)を訪ねられましたね。その時、どんな気持ちだったのですか。

藤本隆宏ちょうど劇団の福岡公演があって、ふと立ち寄りたくなったのです。どうして実家(同県宗像市)ではなく母校だったかは覚えていないのですが、体育館でバレーボール部が練習していて、後輩たちが一心不乱に白球を追い、指導者の先生が情熱を持って指導している――。その姿を見て、思わず涙があふれ、止まらなくなりました。自分の原点を思い出したのです。

学びの場.com泣いたのですか? そのような気持ちに追い詰められるまで、どのような経緯があったのでしょうか。

藤本隆宏6歳から水泳を始め、練習量の多い時は、日に2万5千メートル以上も泳ぐほどの水泳漬けの日々でした。18歳でソウル五輪(1988年)に出場し、次のバルセロナ五輪(92年)では400m個人メドレーで8位入賞、この種目で日本人初の決勝進出を果たしました。この成績は当時、日本史上最高位でしたが、私自身はメダルを取れなかったので、少しも嬉しくありませんでした(編集部注:同種目の日本勢のメダル獲得は、今年7月に行われた「上海世界水泳選手権」での堀畑裕也選手の銅メダルが初)。ソウル五輪からメダルがすべての4年間でしたから。

学びの場.com確か、マスメディアは岩崎恭子さんの金メダルに殺到し、藤本さんの成績はあまり報道されませんでしたね。

藤本隆宏そのショックもありましたが、何よりメダルが取れなかったショックが大きく、「自分の頑張りが足りなかったのだ」と思いました。そこで、もう一度メダルを目指そうと大学卒業後にオーストラリアに水泳留学したのです。しかし記録は伸び悩み、結局アトランタ五輪の代表選考会を兼ねた日本選手権で惨敗し、1996年4月、引退しました。

学びの場.comその後すぐに俳優稼業をスタートさせたのですね。

藤本隆宏はい、でもうまくいきませんでした。元スポーツ選手で身体能力は優れているからダンスはできて当然。また、子どもの頃から音楽が好きで、周りからも歌がうまいと褒められていたので、「歌で勝負だ」などと思っていたのですが……。実際は、歌やせりふができないばかりか、ダンスもできない。元五輪選手なのに、手足が伸びない、リズムに乗れない。水泳時代には経験したことのない“落ちこぼれ”。歯がゆく、悔しかったです。さらに、収入ゼロの日々……。どう頑張ればいいかわからず、途方に暮れていました。

そんな下積み時代の2年目、母校の後輩たちの姿を見て「ああ、やっぱり水泳と同じようにコツコツ真面目に努力することが大事なのだ、一生懸命やることで答えが出るのだ」と、改めて気づかされたのです。自分が水泳でやってきた“努力”。その努力をすれば絶対できる。そう信じて、もう一回頑張ろうと思いました。

学びの場.com水泳が藤本さんに努力することの価値を教えてくれたのですね。なぜ、そこまで打ち込めたのですか。

藤本隆宏水泳を始めた当初は周りに負けたくない、速くなりたいという一心でしたが、日本代表になる頃から変わっていきました。自分のためではなく、応援してくれる人たちのために頑張ろう。コーチやトレーナーに恩返しがしたい、両親を喜ばせたい、という気持ちが強くなったのです。 これは私だけではなく、一流のスポーツ選手に共通のものだと思います。五輪で2連覇した選手なら、「自分のため」だけでは3連覇に向けてのモチベーションを維持するのは難しい。しかし、「誰かのため」「何かのため」であれば頑張れる。努力もラクになるのです。

ドラマ『坂の上の雲』でも明治の若者たちは、国のために勉強をしていました。国という単位の手前には、両親や兄弟のため、恩師のため、良い成績を取ろう、立派な仕事を成し遂げようという意志があるでしょう。 学校でも同じではないでしょうか。子どもは先生を喜ばせたい、先生に認められたいという思いから頑張っているのではないでしょうか。 もちろん、それは自分と相手の人とのハートが通じていればの思いです。お互いの信頼関係が築いているからこそ、一緒にハグしたり涙したり、共に喜びを分かち合いたいと思うのです。誰かのために努力をするという気持ちは、最も大きなエネルギーを発揮すると、私は思っています。

新たな道へ入って気づいたことは・・・

学びの場.comそもそも、なぜ水泳から俳優の道へ入ろうと思ったのですか。

藤本隆宏スポーツ選手なら誰でもそうですが、いつかは次の人生を考えなければなりません。私の場合、「オリンピック」という目的を失った後のことを考えると、とても怖かったのです。バルセロナ五輪後、次のアトランタ五輪を目指してオーストラリアに留学中、記録が伸びないプレッシャーを抱えていましたから、常に「次の道が見つかるだろうか」という不安を抱えていました。 そんなある日、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観たのです。興奮と衝撃が身体を駆け巡りました。舞台とお客さんとの一体感が五輪会場の雰囲気と重なったのです。その瞬間、「ああ、これが私にとっての水泳に代わるもの。いや、それ以上のものが見つかった! こんな世界に携わりたい」と思いました。それで帰国後、新聞で見つけた「劇団四季オーディション」に応募したのです。

学びの場.comでも、藤本さんほどの方だったら、芸能界やスポーツ企業からの誘いもあったのではないですか。

藤本隆宏「元五輪選手」「水泳の藤本」では嫌だったのです。なぜなら、好きで選んだ役者の道とはいえ、言葉を替えればメダルが取れずに逃げるように入った世界です。今までのものをすべて消して、違う「藤本」になって勝負しなければ、決して成功できないと考えたのです。だから「水泳の元五輪選手」という経歴は封印しました。

学びの場.com劇団四季オーディションの面接では、浅利慶太さん(劇団四季代表)に「自分は努力できる天才です」とおっしゃったそうですね。

藤本隆宏認めてもらうためのキーワードとして言いました。演技は素人でしたから、「今の自分は何もできないけれど、これから努力します」という宣言でした。そう宣言して、自分の弱さを克服しようと思ったのです。また実際、水泳では世界一の練習をしてきたという自負がありましたので、努力することだけは絶対的な自信がありましたから(笑)。

学びの場.com水泳を封印しても結局は、「努力」という共通のキーワードがあったのですね。

藤本隆宏そうなのです。以前は、芸能界という所は、元プロスポーツ選手や誰かの二世といった人たちであれば、経験が浅くても容易くチャンスが与えられる世界だと思っていました。しかし、広瀬中佐役をいただいてから、やはり近道はない、遠回りでも努力の積み重ねが正解なのだと実感しました。大手広告代理店に勤める大学の先輩から「芸能界は努力してもその通りに答えが出る世界じゃないと思っていたけれど、それをお前が覆してくれた。努力すれば答えが出る世界だと証明してくれた」と言われた時は、本当に嬉しかったです。水泳だって最初から速かったわけではありません。コツコツ努力することの大切さ、努力すれば日本一になれることを水泳が教えてくれたのです。

 また、水泳は決して一人で戦っているわけではないのです。両親やコーチ、仲間たちのサポートがあってこそ結果が出るもの。これは、俳優業も同じだったのです。知人の紹介で、女優の有馬稲子さんと出会ったからこそ同じ事務所(当時)に入れましたし、有馬さんの紹介があったから木原光知子さん(東京五輪競泳代表・タレント、故人)と出会い、彼女のスイミングスクールで教えるようにもなりました。『坂の上の雲』のエグゼクティブプロデューサーでいらっしゃる西村与志木さんは、現在所属している事務所の社長と旧知の間柄であったことから、幾度も自分の出演舞台に足を運んで下さり、演技を見て下さった上で広瀬役にお声掛け下さいました。すべて人と人とのつながりなのですね。このような人との絆のありがたみも、水泳が教えてくれていたのです。そして人生をも変えてくれました。

夢に向かって努力していけば・・・

学びの場.com2009年、俳優として順調に歩み始めてから再び母校を訪ねられましたね。

藤本隆宏高校3年生の時担任だった岩谷敏秀先生に招かれて、健康スポーツコースの生徒に自分の水泳、演劇と歩んできた体験、そして「努力すれば必ず、上に行ける」という話をしたのです。教室が生徒たちの熱気に包まれ、非常に盛り上がりました。 実はこれは、“岩谷先生のために”引き受けた講演でした。先生は私のこれまでを、ダメな時もよい時もずっと見ていてくれました。一人前になった姿を「私は先生の教え子です」「先生のおかげで今の自分がいます」と言って、後輩たちに見せたかったのです。

学びの場.com母校の生徒さんたちだけでなく、全国の子どもたちに向けて藤本さんからメッセージをお願いします。

藤本隆宏私の場合、自分のすべてを注いで頑張った水泳で、メダルを取れなかったことがコンプレックスとなり、「よし、何か違う分野で花を咲かせよう」と演劇の道へ入りました。ジャンルは違っても、水泳と同じくらい情熱を注げる仕事を見つけたかったのです。で、これまでお話しした通り、「水泳も演劇もコツコツ努力することで結果が出る」という点は同じだったとわかりました。水泳を一生懸命やってきたからこそ、演劇でも頑張れたのです。

 つまり、一つの夢に向かって努力していけば、たとえその夢に届かなくても近付くことはできる。もう一つ別の夢が現れてくる。脇道にそれたように思えても、必ず意味がある。「人生にとって、遠回りは無駄ではない」ということです。直線距離よりも回り道をした方が大きな人間になれる、と信じて歩んでいってほしいですね。ただし、全力を出さないと手に入らないものですよ。

学びの場.comでは、子どもたちを指導する先生方にもメッセージをお願いします。

藤本隆宏教育者という道を選んで進まれていること自体、畏敬の念を覚えます。先生方は、ひたすら「子どもたちのため」「よい教育を」という気持ちで現場に臨んでいらっしゃる。その気持ちが素晴らしいと思うのです。  大抵の方は大学を出てすぐ教職に就かれると思いますので、20代前半という若いうちに、そのような純粋な気持ちで子どもたちと接していかれることは、学校教育という場に絶対よい影響を与えていると、私は思います。 実際に学校現場に入ると、当初のイメージと違って苦労されることも多々あるでしょう。それでも「子どもたちのため」という原点を、いつまでも忘れないでいてほしいですね。

藤本 隆宏(ふじもと たかひろ)

俳優。1970年、福岡県生まれ。早稲田大学人間学部卒業。6歳から水泳を始め、18歳でソウル五輪、22歳でバルセロナ五輪(400m個人メドレー8位入賞)に連続出場。1989年には200m・400m個人メドレーで日本記録を樹立。豪州に水泳留学後、97年に劇団四季『ヴェニスの商人』で初舞台を踏み、本格的に俳優活動を開始。以後、自ら舞台の作・作詞・演出・出演を手掛けるほか、執筆活動やスポーツ解説、ライブ活動など各方面で活躍中。2012年NHK大河ドラマ『平清盛』では清盛の腹心・伊藤忠清役で出演。

インタビュー・文:渡辺敦司/写真:言美 歩

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