2008.06.10
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教員人事権を市町村教委へ移譲?

教員人事権の移譲に関する意見を文部科学省は年内にもとりまとめる予定だ。同省はこのほど、公立小・中学校教員の人事権を都道府県教委から市町村教委に移譲するに当たっての課題などを検討するため、関係団体の代表や学識者らによる協議会を発足させた。もし、市町村教委への教員人事権の移譲が実現すれば、これまでの教育改革などとは比較にならないほど、日本の学校教育に大きな影響を及ぼすかもしれない。

「二つの顔」を持つ公立小・中学校教員

 公立学校教員の人事権を市町村教委への移譲といっても一般の人には、たぶんよく分からないだろう。そこで、まず公立小・中学校教員の人事について少し説明しておこう。

 公立小・中学校の教員の身分は所属する学校の設置者である市町村の職員だが、実際の採用・異動・処分などの教員の人事権は都道府県教委(政令指定都市教委を含む)が持っている。これは、公立小・中学校教員の給与の3分の1を国、残り3分の2を都道府県が負担し、市町村は一切を負担していないという教員給与負担の仕組みによるものだ。つまり公立小・中学校の教員には、形式的には市町村職員、実質的には都道府県職員という二つの顔がある。

 「義務教育費国庫負担制度」と呼ばれるこの給与負担システムは、(1)市町村の財政力に左右されず必要な教員数を確保できる、(2)都道府県内全体で人事異動を行えるため教員の質を地域ごとに均一化できる――などのメリットがあり、地域間格差、学校間格差の少ない均一的な教育を可能にしたという意味で、日本の義務教育の根幹を支えてきたと言っても過言ではない。また、教員人事権に併せて、クラスの人数を何人にするかという学級編制権、どの市町村に何人の教員を配置するかという教員定数に関する権限も都道府県教委が持っている。

 ところが、学校ごとに個性や特色のある教育を打ち出すことが求められる時代になって、このシステムの弊害が指摘されるようになってきた。(1)定期的に人事異動があるため勤務地や勤務校に対する愛着が薄い、(2)人事権のある都道府県教委ばかり見ていて市町村教委を無視している、(3)どうせ数年で異動するのだからと問題を先送りする体質がある――など公立小・中学校教員の人事異動にまつわる不満や疑問を持つ保護者は少なくないだろう。

 また、現在は学級編制基準が弾力化され解決したものの、少し前までは少人数学級を独自に実施しようとした市町村教委に対して、都道府県教委が教育の地域間格差を招くという理由で学級編成権を盾に認めないなどのケースが問題となったこともある。

 いずれにしろ、均一的な義務教育を支えてきた教員人事システムも近年になってほころびが目立ち始め、見直しを迫られつつあった。それに拍車を掛けたのが地方分権に向けた流れだ。地方分権の推進を受けて文科省の中央教育審議会は2005年10月、答申「新しい時代の義務教育を創造する」の中で、当面は人口30万人以上の「中核市」へ、将来的にはすべての市町村教委へ都道府県教委が持っている教員人事権を移譲するという方針を打ち出した。

 この背景には、学校現場により近い市町村が教員の人事権を持つべきだという考え方がある。これには地方分権や規制緩和の観点からも賛成意見が多く、政府の規制改革会議や地方分権改革推進委員会も教員人事権の市町村教委への移譲を積極的に求めている。また、安倍晋三前首相が設置した教育再生会議も2007年1月に出した第一次報告の中に教員人事権の市町村教委への移譲を盛り込んでいる。

当事者である町村教委が権限移譲に反対

 市町村教委が教員人事権を持てば、採用から異動まですべて市町村が行うことになり、文字通り「わが学校の先生」「わが町の先生」となるわけで、教員の人事異動に伴う保護者などの不満が減少することは確かだろう。加えて、文科省、規制改革会議、地方分権改革推進委員会がこぞって賛成しているのだから何も問題はない、はずだ。だが、そう簡単にいかないところが教育問題の難しいところだ。

 都道府県教委から市町村教委への教員人事権の移譲について、関係団体の意見は真っ二つに分かれている。自らの権限を失うことになる都道府県教委は移譲に反対、政令指定都市と中核市の教委は移譲に賛成と、ここまでは当然の成り行きなのだが、問題は移譲先の当事者であるはずの一般の市町村教委が反対を表明していることだ。特に小規模自治体が多い町村教委は、教員人事権の移譲に強く反対している。

 なぜ、自らの権限強化につながるにもかかわらず町村教委は反対するのだろうか。市町村教委が独自に教員採用をするようになったら、大都市部などに教員志願者が集中し、地方やへき地には質の高い志願者が集まらなくなるというのが表向きの理由だが、それよりも大きいのは財政事情、つまりお金の問題だ。教員給与の3分の1を国が負担するとはいえ、残り3分の2を果たして市町村で負担し切れるのか。

 文科省は、教員人事権の移譲に当たって、財源なども都道府県から市町村に移す方向で検討する方針だが、その成否がはっきりしないまま賛成し、もし財源がこなかったら莫大な教員の人件費を市町村が独自で賄わなければならない。財政力のある大都市の教委は別にして、とてもそんな危ない話には乗れないというのが一般の市町村教委の本音だ。

 実際、国の給与負担がつかない形ならば現行制度でも市町村が教員を採用することは可能で、東京都杉並区教委などは独自の教員採用を実施している。しかし、人件費の負担が大きいため、この制度を活用する市町村は少なく、活用したとしても解雇可能な「期限付き採用」での活用がほとんどというのが実情だ。

 一方、都道府県教委の主張にも少なからず説得力はある。地方自治体の財政力によって教員給与が異なったり、都市部や地方部など地域事情の違いで教員志願者に偏りが出ると、地域間の教育格差が拡大し、ひいては義務教育の公平性、平等性が崩壊すると都道府県教委は訴えている。さらに、公立小・中学校の教員の間にも「同じ学校、同じ地域に定年までずっと勤務するのはつらい」という声が少なくないという事実も見逃せない。

 このため、文科省の協議会では、市町村教委への教員人事権移譲に先立って、市町村の財政力の違いなどで教員の質に偏りができないようにするため、複数の市町村間で教員の人事異動を行う「広域調整」の仕組み、学級編制権の在り方、教員給与の財源の在り方などを検討することにしている。今後、中核市教委への教員人事権の移譲はほぼ間違いないとして、それが一般の市町村教委にどの程度まで広がることになるのかが焦点となっている。

 よい教員に長くいてほしいというのは保護者や地域の共通の願いである一方、教育の学校間格差・地域間格差の拡大の懸念も無視できない。複雑に絡んだ地方自治体同士の利害関係をどう調整していくのか、文科省の舵取りが問われるところだ。

 しかし、そもそも公立小・中学校の教員とは、「わが校の先生」「わが町の先生」として特定の学校や地域のために尽くす存在なのだろうか、それとも広域の人事異動を前提に公教育全体を担う存在なのだろうか。そのどちらを選ぶかで、案外、これからの日本の公立小・中学校の教育は大きく変わっていくことになるかもしれない。

 そう考えると、教員人事権の問題は、都道府県教委と市町村教委の権限の在り方といった地方分権論の視点と同時に、「教師論」という面からも議論してみる必要があるのではないだろうか。

構成・文:斎藤剛史/イラスト:あべゆきえ

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