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2008年3月12日

戦国武将はどんな人たち?! 血も涙もない荒くれ者たちなのか?

宮崎県えびの市立加久藤中学校 教諭
山下豪一

 先月、次女と長男の通う小学校の先生から、4年生の総合的な学習の時間で地域の歴史についての問い合わせがありました。地元の“粥餅田”(かゆもちだ)という地名の由来が適当と考え、改めて「小林市史」や「えびの市史」などを紐解きなら資料を作っていきました。そのとき感じたことを書こうと思います。
 
 ところで、皆さんは“粥餅田”にどのような由来があると思われますか。
 元亀3年(1572年)5月3日に、木崎原戦いが、伊東義祐(よしすけ)と島津義弘の間でおこなわれました。この戦いは南九州の覇権を競う伊東氏と島津氏との激戦でした。(この戦によって、島津氏は南九州の地位を確固たるものにしたので、木崎原の戦いは「南九州の関ヶ原の戦い」とも言われます。)
 この戦いの終盤、現在の宮崎県小林市南西方の粥餅田付近で最後の死闘がありました。その戦いが終わったころ、島津家家臣の妻たちが味方の戦の労をねぎらって、桶に満たした粥をこの地で将兵に振る舞い勝利を祝ったことに由来します。
(木崎原の戦い http://www2.harimaya.com/simaz..... )

 市史を調べ、ホームページを検索していくうちに、島津義弘は木崎原の戦いでなくなった820余名のために、えびの市池島の古戦場あとに“六地蔵塔”を立て、敵味方双方の戦死者の霊を供養していたことがわかりました。また、先ほどの粥餅田にも、討ち取った伊東氏方の名将柚木崎丹後守(ゆきざきたんごのかみ)を供養する石碑を建てていました。市史によると、義弘をはじめ島津氏は、大きな戦の跡地にほとんど六地蔵塔を立て、敵味方隔てなく供養をしています。

 ご存知の方も多いと思いますが、島津義弘は、あの天下分け目の関が原の戦いで、敵中突破をした勇猛果敢な戦国武将です。私の今までのイメージでは、言い過ぎかもしれませんが戦いに明け暮れた情け容赦なき武将でした。
 後日、私は勤務校(えびの市立加久藤中)の生徒に戦国武将のイメージを聞いてみましたが、私のそれと変わりませんでした。そこで、歩いていける木崎原の古戦場の六地蔵塔のことを話すと、戦国武将のやさしい一面に触れ、興味深く私の話に聞き入っていました。

来年は、受験対策も大切ですが……、
地元の歴史を紹介する時間をとろうと考えています。

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